澤あづささんがご自身のブログで
2017年5月26日紅月降誕祭なるものを開催されるおつもりらしい。
とりあえず、紅月さんの作品を地味に一作品つづ 拝読しているところです。
一日に一作品くらいをめどに拝読しているところなので、2011年くらいに投稿されたものを拝読している。
あまり、接点のない方という印象だったのだけど、拝読してみたら
わたしと似たようなハンドルで お書きになっていたこともあるみたい。
るるげんさんという名前で メビウスリングに投稿しておられたりする。なんだか、
るるりらとなのってきた私としては 俄然、紅月さんに興味がわいてきた。
そういえば、蛾兆さんが教えてくれたことがあるのだけど、
『Lu』という響きの言葉に 西洋の人は光を感じるらしい。
「ルミネとかラグジュリアスと同じで、光という意味があるとか聞いたことがある。ハリーポッターのシリーズでは、『ルーモス!光よ!』という呪文が懐中電灯がわりに多用されるけど、それと同じで、ル、というだけで音が光る。」と教えてくださったことがある。
日本語の感覚の『る』は『流』を連想させるため、水流を思わせるけれど、
紅月さんの作品をおうことで、わたしにとっての なにかしらの光のようなものを
見出せるかもしれない。
*********************
2017-03 -14
いま、18歳くらいまでの詩を再読したところ、
すでに 一遍の詩をかきあげているものの。
全部 澤さんが推薦しておられる詩は全部 読んではみるけど、
すごいなー。ぜんぶ 読むのたいへんだなー。
http://plaza.rakuten.co.jp/izchan2010/diary/201503240000/?scid=we_blg_tw01なんとなく、自分のハンドルを検索にかけてみたら、とても うつくしい絵をつけていただいたサイトに再会した。
小石のような言葉なのに こんなに眩い光をつけていただいたことがある。
私の小石を【拍動する石】は万華鏡だと しぇりーさんは おっしゃり、澤さんは満月だと語っておられた、作者の
るるりらは こころを 描きたかった。こころは ころころ変わる。だから この小石を読者がどのようにとらえても 正解だと私は思う。
でも、こころとは なんだろう。
言葉にできないイメージを ちがう言葉で書いただけのような気がしないでもない。
これが、ごく最近に書いた詩
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=951こころは都市だとも思う。
こころは 都市のようでもあるけれど、炎のようでもある。エネルギーで結びつき。
その炎は ときには炎上し、風向きしだいであらぬ場所が火の海になることもある。
小石が心であり、都市が心であり、炎が心であり、風が心であり
人は、
こころを なにかに 寄せたいと願う。うちよせる海のように
こころが さざ波になる。
そして、今年も311が来る。
ある詩友に、サルほどの脳もないのではないかと、言われた。
わたしのおじさんは いま 癌で終末期を迎えている。
「サル」と、言われてしまったことのおかげで、 おじさんの思い出が蘇ってきた。
あれは弟が 小学校一年生の時、その日は学校が終わったらオジサンの家に家族で行く予定にしていた。
弟は その日もなんとなく機嫌が悪かった。おじさんの家について みんなで ぼんやりテレビを見ていたら、日本ザルが温泉につかっていて おじさんは温泉ザルがとても好きだと笑っていた。
けれど、弟は 突然 泣き始めた。
かわいい温泉ザルの映像でなぜ 泣く。なんでも学校で サルだといって いじめられたらしい。
弟は サルに噛まれたことがある。商店街の片隅に 綱に結び付けられていた 飼い犬ならぬ 飼い猿にちかづいて噛まれたのだ。それで、サルだと言わただけで恐怖が蘇ってしまい。どうしようもないくらいに傷ついたらしい。
「なぜサルといわれたの?」と聞くと、
「クラスで 誕生日の話になって、サル年だからサルだといわれたあ」と 弟。
なんてこったい、ほぼ二分の一の確率で サルではないか!!
人間が人間に「サル」というときは 大概の場合は、バカにしているのだけど、
たわいのない理由でも 弟は、これ以上悲しいことはない風情で泣いていた。
弟「僕は サルじゃないもん」
おじさん「サルでいいじゃないか あんなに かわいいだろ?」
弟「僕は 人間じゃんか」
おじさん「じゃあ 人間て なんじゃあおもうか?」
弟と私「………」
おじさん「人間の特性は、あそぶことなんでぇ」
私「どういうこと?ふざけているの?」
おじさん「いや、本当に本当の話じゃ。ニホンザルは 楽しそうじゃろ。お風呂で遊んでいるみたいじゃろ。遊び心があるサルのことを 人間いうんじゃ。サルはサルでも ニホンザルに遊び心が もしあるなら、あれらは人間と同じじゃ!」
私「なんじゃあそりぁ。意味がわかんない」
おじさん「ホモ・ルーデンスっていうて、そういう学説が ほんまに あるんじゃ」
このホモ・ルーデンスというカタカナのことは、高校生くらいになって再び耳にするまで忘れていたけれど、はじめてこの言葉を教えてくれたのは 私の場合は小学生の時にオジサンが教えてくれた。それまではお勉強のできる人間らしい人だと 思い込み始めていたので、遊ぶから人間なんだという考え方を、真面目に言う人がいることは、衝撃だった。
遊び心をいつも忘れない人は、人として 美しい人だと思う。
おじさんは、胃癌で もう なにを食べたいとは思わないし 無理矢理、なにかを食べようとしても すこしも美味しくは感じられないらしい。
おばさんが、「しょうがないよ。いまだったら フグでも味はしないわよ」というと
嬉しそうに目をして「もってきてみぃや、フグを」と 笑った。
フグがここにあると おもろいなあという目だった。
おもろい想像のできる人を、人間と呼ぶのだなあと
わたしは、おじさんを見ていると つくづく思う。
************
追記。この文章を読んだ友人が、わたしは 八方美人は無理だとおしえてくれた。
猿と私のことを言った人は、
わたしと別の人の間に入って「楽しく交流できますようにと祈っております。」なあんてことも言ってらしたなあ。
だけど私は猿だから去るっていっておられたわけで、そんなの
さっさと とりけしてくださったら良いのに。ふつうに お話ししたいのに。
私は、みのほどをしるべきなのね。まったく 私ったらサルだなあ。クラスの半分が猿のクラスに入りたいなあ。
うん、でも 八方ふさがりではないのだし、わたしはわたしで もっと遊ぼう。
意識をつなぐテレビジョンは すべて砂嵐です 伝達の放棄です
今も絶え間無く砂がながれこみ あの人の街を沙漠にして
具体的な行動を具象する信号のすべては静止しています
すべてが 砂の中であろうと
すこしも 海の匂いを失わない 一匹の海月が
あの人の水槽の中で ゆれています
たゆとう光の環が 天井に反射し 海月の影も ゆれています
人は みな海の忘れ形見です
わけもわからなくなってもまだ憤っているあの人の心の底にも
ちいさな海が疼いています
泣きたいくせに泣くこともできない砂の城で
こぶしを砂に叩きつけている わたしを憎む あの人の心の中にも
一匹の海月が まだ 息をしているのです
海の縞模様が あの人の心の中にも 住んでいます
あの人も
わたしも
海の忘れ形見なのですから
**************************
以前に、【砂の中の海】という私の作品に動画をつけてくださったことがあります。
その時の詩を改編してみました。
群青メンバーの鮎風さんが 素晴らしい音楽と画像や動画をつけてくださったのです。
その時の詩や動画は 以下のような作品でした。
Youtube「砂の中の海 」 http://www.youtube.com/watch?v=xsSGjS1kviU
**************************
【砂の中の海】るるりら
海の縞模様が 砂の城に 住んでいます。
幸いなことに 泣き方をしらないのです。
今も絶え間無く砂が この街に注がれ続け
この部屋の容積も 埋められて います。
元居た場所を けして忘れない生き物ですから
たとえ 砂の中であるとしても
すこしも 海の匂いを失わないのです。
海の底から見上げた光の またたきを おぼえています。
人はみな海の忘れ形見です。
海の匂いを忘れたことも ときにはありました。
海を失うと こころの中心が陥没するのでした。
たとえ 海の匂いを忘れても すべての子は海の忘れ形見。
その命が 果てるなら 海は哀しむのです。
海岸で 真夏だというのに桜が咲いたことがありました。
潮が悲しみにさわぐので 桜が咲いたのだと
風が 教えてくれました。
真冬だというのに 北極が凍らない日々があったとしら
それは 凍っていた屍が 海を恋しがるからだと
雨が 教えてくれました。
私が海を 忘れたとしても
海は私を 忘れない。
砂の音を褥に眠り、海の匂いを歌うために 私は目覚めます。